再び、碇シンジの物語

 前回エントリについてid:BigHopeClasic氏より非常に興味深い指摘を頂戴した。予告編のワードを「『壊れてゆく』『碇シンジの物語』」と捉えるか、「『壊れてゆく碇シンジの』『物語』」と捉えるかという問題だ。迂闊と云うか浅学菲才と云うか、後者の視点はすっぽり欠落していた。再演物語として捉える意識が強すぎたのだろう。ので、これを奇貨と捉え、劇場鑑賞から一日経って理解が深まった部分も併せて再考してみた。

シンジは「壊れてゆく」か?

 成程、「壊れていく碇シンジの」「物語」という諒解は非常にしっくりくる感じがある。旧作からも明らかなように此処からシンジを取り巻く状況は悪化の一途を辿ることが予想され(更に「破」に於いて大幅に従来のストーリィが変更される事は既に示唆されている)、「序」に於いて僅かな進歩を掴んだシンジは再び大波に翻弄され、煩悶し、七転八倒せざるを得ないだろう。しかし、壊れてはゆきつつも彼が前回と同じ轍を踏むことはないと俺は考えている。

シンジに足りなかったもの

 旧作のシンジに最も根本的に不足していたのは「ぼくはここにいてもいい」という自己肯定、自己承認だ。コミュニケーションの問題も、他者への不信感も、世界への齟齬感も、全てはここから生じていた。自信のなさと果たすべき役割への決定的な違和感が彼の精神的破綻と迷走を招来したのだと俺は理解している。
 では翻って今回はどうか。彼は既に友を得た。信頼するに足る大人=ミサトを手に入れた。そして自らに課せられた役割と責任を自覚した上で初号機に乗る道を自覚的に選択した。これは旧作に比べて非常に大きな人間的進歩といえる。予告編を鑑みるに3号機と共にトウジが失われる事(貞本版に則るならばそれは死別であり、ケンスケとの訣別でもある)、加持の登場によりミサトが大きく揺れ動くことは不可避だろう。それらはシンジにとって大きな試練となる。早期段階でのカヲルの登場、そして正面から彼のアイデンティティを揺さぶるアスカの来日によっても彼の心が千々に乱れることは容易に想像できる。

自己決定、それが齎す強さ

 しかし、最も重要なことは「シンジが自分で決めて初号機に乗り、結果を出した」ことなのだ。誰に強制されたわけでも状況に流されたわけでもなく、自分の役割を果たすために彼はヤシマ作戦に赴き、そして期待された責務を十全に果たした(リファインされたラミエルの強大さが作戦の重要性、彼の双肩に担わされたものの重さを充分以上に表現していたことは今更述べるまでもないだろう。最終的にマニュアル射撃でラミエルのコアを貫いたことは、パイロットが彼でなければ作戦成功は覚束なかったことを暗示し、彼を信じて支持したミサトの決断をも肯定している)。一度は耐え難い苦痛を味わい、もう戦うのはイヤだと思った相手と、責任を自覚した上で再対決し、打ち破った。これほどの成功体験はまたと得られないものだ。そして掴んだ勝利によって、恐らくシンジは帰還後に様々な人から評価され、感謝され、労われた筈だ。自己承認に飢えている者にとって、これらの言葉がどれだけの喜びと自信を与えてくれるかは贅言を要すまい。彼の中で初号機パイロットとしての大きな自覚と誇りが芽生え始めたとして不思議ではないだろう。
 それは旧作に於いて最後まで彼が真っ当な形で得られなかった実感なのだ。ヱヴァンゲリオンを主人公・碇シンジの物語と考えるならば、この変化の可能性は断じて見逃せない。僕は人類の運命を背負っている。僕はそれを承知で自分で決めてヱヴァに乗った。皆は僕を必要としてくれているし、僕を支えてくれている。そして僕がヱヴァに乗って為すべきことを為すには、皆の協力が絶対不可欠だ。だから僕は此処に居る。僕は此処に居てもいい。それは己が他者からアプリオリに愛されるという小児的幻想から一歩抜け出し、社会的役割の中で相互信頼を醸成し己の居場所を作り上げて行こうとする極めて真っ当な少年の成長譚だ。そして彼は結果を出した。人類を確かに救ったのだ。

10年を経たことの意味

 90年代、若者を覆っていた空気は確かに旧作のシンジと通底するものがあった。混沌的な状況と脆弱なアイデンティティ、自己決定の不安、父性や母性の揺らぎ、解体されつつある社会。それらに対する包括的なソリューションとしての精神的後退、「ぼくという物語」への全面的撤退。いわばセカイ系のはしりとして登場したエヴァがこういった若年層の問題を巧みに前景化し、サブカルチャー業界まで巻き込んだ一大ムーブメントを起こしたことは今更論じるまでもない。
 しかし現代は状況がシフトしている。同じロジックは時代にそぐわない。上に挙げた諸条件は既に所与のものであり、閉塞への後退に未来がないことも明らかになっている。現在重要なのは、手詰まりに見える状況から「何をするか、どうするか」だ。行動こそが閉塞を打破し未来への道を開くのだ。庵野は時代の空気の変化には聡い。彼自身も結婚を経て新しい物語を己の中に刻んでいるだろう。であれば、己が分身たるシンジに変わり映えのしない役割を与えるとは考えづらい。

そしてシンジは何処へ向かうのか

 シンジは旧作からまだほんの小さな一歩を踏み出したに過ぎない。しかし、道筋は付けられたのではないかと俺は感じている。アスカやカヲルや新キャラクターといった強い自我にどう対峙していくのか。降りかかるであろう障害や挫折にどう対処していくのか。逆境で直面するであろう責任やリスクに対してどう振舞っていくのか。立ち塞がるものは多いだろうが、是非彼には更なる人間的成長を遂げて欲しいと思っている。
 次の一歩は「仲間や関わった人々と手を携えてベストを尽くし、ポジティブな結果を引き寄せ、それを皆で分かち合いたい=僕は此処に『いたい』」という境地に至れるかどうかだろう。障害の一つ一つも成長の糧なのだ。苦境にのたうち後悔や迷いに苛まれながらも人との関わりの中で明日への光を掴む。それができて初めて碇シンジは真に主人公としての姿を顕す事ができるだろう。地味ではあるが、真に賞賛さるべき、遥か未来を目指すための羽根も持たない俺達が地を這いながら描いているのと同様の物語だ。
 だから俺はシンジにエールを送るのだ。10年前確かに碇シンジであり、今は少なくともかつての碇シンジではない俺だから彼の成長を願うのだ。無論俺も年季の入ったクソヲタであり、一度は庵野のストリップスカトロショウに付き合っている以上、物語が順調に進むなどという楽観的予想はしていない。恐らく酷いことになるだろう。しかしそれでも俺は希求するのをやめたくはない。10年後の再演に意味があるとしたら、それはシンジの変容以外に有り得ないと確信しているからだ。庵野秀明が、碇シンジに己自身を重ね合わせずにはおれない男だと云うことを知っているからだ。そしてシンジの進む道が俺達と、俺達の未来と重なり合っていて欲しいと願っているからだ。
 そうであって初めて『ヱヴァンゲリオン』は『新世紀エヴァンゲリオン』を超え、新たな時代の神話として再び屹立することができるだろう。