幻の女

 夏も終わりということで、やり残した宿題を片付けるように百物語をもう一つ拵えてみた。諸氏の納涼の一助になれば幸いだ。

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 僕は不機嫌の極みだった。2年以上付き合った彼女に逃げられたからだ。しかもNTR。悲惨も恥辱もこの上ない。では、どうして荒んだ気分のまま部室なんぞに篭っているのか。決まっている。僕は友人が多いほうではないからだ。今嗤った奴は前に出ろ。もれなく鉄拳をくれてやる。
「おやおやどうした山村君。便秘真っ盛りのウチの姉貴のような顔をして」
 辺見部長のおでましだ。この人はいつもお気楽極楽で羨ましい。少しは世間の風の厳しさを知るべきだと僕は常に思っている。案の定、かくかくしかじかと事情を話したら、いつもの底抜けに人の悪そうなニヤニヤ笑いを浮かべ始めた。
「山村君。女は女であるとゴダールも云ってるじゃないか。何年付き合おうが、あんな浮気性で無責任な生き物を信用した君の方がおかしいに決まっている。女の本質は変節と裏切りにあってだな…」
 くそ、人の不幸がそんなに愉しいか。
「いくら温厚な僕でも怒りますよ。そりゃ部長のような無職童貞としあきには解らないのかもしれませんがね、これでも人並みには傷ついてるんですよ。少しは察して貰えませんか」
「…ふむ。いやいや悪かった。このとおり。そうだな、詫び代わりといっちゃなんだが、面白い話をしてやろう。自分の不幸さ加減が少しはマシに思えるような話だ」
 僕の剣幕に驚いたのか部長は目を丸くして詫びたが、直ぐに元の表情に戻るとまたぞろ悪趣味な気配を纏いはじめた。
「俺の知人の話だ。そいつもお前同様見事に女に振られたんだが、思い余って別れ際にラブホで相手の首を絞めちまったんだと。こう、きゅうっと」
 うわあ。それ、シャレになりませんよ。
「で『ああやっちまったもうダメだ』『頼む今直ぐ消えてくれ』『ピクリともしねえ今更無理だ』『それじゃバラして隠そうか』『アホかバレるに決まってるだろ』『いっそ逃げるか』『俺達が付き合ってたの皆知ってるのに逃げ切れるわけねえ』とひとしきりその場でグルグルした後で、結局警察行ったらしいんだよ。たった今女を殺してきましたって。で、警官と一緒に現場のラブホに戻った。ところが誰もいない。勿論死体もない。受付で訊いても、そのお客さんは一人で入って一人で出て行きましたよって云われる。そもそも、警察が照会してもそんな女性は戸籍に載っとりませんよと云われる。そいつは頭を抱えちまったそうだ」
 そりゃそうでしょう。もしかしてそんな女最初からいなかったんじゃないんですか。ほら、関係性妄想とか脳内彼女とか。
「そいつはそんな筈はないと思って、まるで自分の犯罪の証拠を探すみたいに四方八方に尋ねて廻ったそうだよ。これこれこういう女を知ってるだろって。けど返って来る返事はお前は一体誰の事を言ってるんだの一点張り。やっと同じ名前の女に行き当たったんだけど似ても似つかない別人で、しかもマブダチの幼馴染だ。手掛かりゼロ、証拠ゼロさ。あんなに撮った筈の写真もムービーも、山のように送ったメールも何一つ残ってない。痕跡ひとつ残さず女は綺麗さっぱり消えちまったんだ。医者にまで罹ってみても、ぶっちゃけお前の妄想だろうと云われる。精神的にボロボロになったそいつも最後にはやっと諦めたそうだ。多分自分が何か勘違いしてたんだろう、彼女を追いかけるのはもう無駄だってな」
 確かに可哀想な話ですけど、結局妄想だったわけでしょ。だったら、普通に社会復帰して普通に女と付き合えば幸せに生きられるんじゃないんですか。
「この話にはいやなオチがあるのさ。やっとゴタゴタを忘れて、そいつも女と付き合ったりその手の店にいったりするようになったんだよ。お前の云う通りにな。なんだけど、いざ懇ろになって事を致そうとすると、相手の顔が違う顔に見えるっていうんだ。よりによって、自分が絞め殺したはずの女の顔にな。相手が誰であってもだ。何回試してもだ」
 全然直ってないじゃないですかそれ。今度こそ本当に相手を殺しかねませんよ。
「そいつもそう思った。俺が最後の連絡を受けたのはその時さ。携帯に急に『助けてくれ辺見、俺は本当に頭がどうかなっちまった。この世の女を全員殺したくて殺したくてたまらないんだ』って悲鳴みたいな電話が掛かってきてな。事のあらましを聞いて大急ぎで行ってみたら、そいつは自室の鴨居からだらりとぶら下がっていたよ。自分の妄想に耐えられなくなったんだろうってのが警察の見解だったな。行き掛かり上葬式まで付き合ったんだが、首に残った痕は、ありゃあ縄というより、人間の手みたいな形をしていたよ。丁度こう、女みたいな細い手できゅうっと対面して絞めたような…」
 悪い冗談はやめてください。仮にも亡くなった人のことを。
「本当だってば。それに駆けつけた時、そいつの家から出てくる人影を俺は確かに見たんだ。すらっとして髪の長い、そいつがずっと云い続けてた女そっくりの。警察にもちゃんと云ったぞ。取り合って貰えなかったけどな」
 最後が一番薄気味が悪いですね。結局それもなんだか解らなかったんでしょう?
「そういうことだ。まあ、世の中そういう不幸な奴もいるって話だよ。それに比べりゃお前は大分マシだろう?」
 どうやらこれでも僕を元気付けているつもりらしい。悪趣味の極みだが、厚意だけは認めなければなるまい。部長は今日はもう締めてスカッと呑みに行こうぜと誘ってくれた。僕はこちらの厚意も有難く受けることにした。少しは元気も出るかもしれない。
「そういえばお前、誰と付き合ってたんだ」
 ああ、部長も知ってる娘ですよ。ほら、あの。何遍も僕と一緒にいるところを見てるでしょ。そういえば部長の後輩じゃないですか。
「……………誰だ、それ」
 …部屋の温度が十度ほど下がったような気がした。