もう少し綺麗事で済まない方向で考察してみる

自意識が現実と触れるところに物語が生まれて、それはある種の妥協なくしては挫折にいたるのは、「大きな物語」が決定的に敗北し、運動が迷走の果て自家中毒を起して崩壊した70年代初頭からこっち、ずっと判りきったことだったのに、目をそむけてきた結果に現代の「物語」がある。物語の要請がある種のカタルシスを必要とするから、どころか、それ以前に、挫折から目をそむけてきたのが「物語」界だ、ともいえる。現実がままならない妥協と敗北の繰り返しであるからこそ、物語は「成功」を提示し続けなければならなかった、といえるかもしれない。
しかし、ゼロ年代においては、すでにしてその「成功」の虚飾性があらゆるところでむき出しになっている。その虚飾をそぎ落としたところに、新しい物語の可能性を見る。敗北あるいは妥協による情熱の喪失と、その回復。これこそが、ポストゼロ年代のテーマだと断言してもいい。
だからこそ、決断主義セカイ系は共に挫折しなければならないんだよ! と、アジってみる。「物語」にはカタルシスさえあればいいんだから、主人公がこれ以上はないほど気持ちいい挫折をする話を見てみたい。というか、その方向にひとつのリアルを描き出す可能性が存在している。コードギアス秒速5センチメートルは、その決断主義側とセカイ系側からそれぞれの回答、なのかな? とも考える。

http://d.hatena.ne.jp/crow_henmi/20070825#1188080609

 id:crow_henmi大先生のエントリから引用。俺には理屈捏ね回すような学はないんで、まあざっくりいかせてもらいます。
 俺にはもとから、メインキャラクターが全員酷い目に遭って挫折と後悔と苦痛の中で終焉を迎える、みたいな悪趣味な話が大好きなところがある。自分の人間嫌いな一面が綺麗に投影されてて寧ろ壮観なんだが、こういった挫折譚は現代の空気に非常によくマッチするんじゃないかという予感がある。
 なにせ現実が世知辛い。夢や希望を齎すどころか、上から覆い被さってくるような陰鬱で暗然としたニュースばかりが幅をきかせてる。未来への明るい展望なんぞ、よっぽどのオポチュニストか莫迦でなけりゃあ持ちようがない。そんな中で、闇を切り裂くような敢然たる決断主義の物語が、世界と自分の間で懊悩するセカイ系の物語よりもカタルシス的な側面から支持を得るというロジックは容易に理解できる。
 しかし俺は疑問に思うのだ。それ、綺麗事の部分だけ掬い取って云ってるんじゃないか、と。皆、鬱屈した気分を晴らすのにアッパー系の話だけで満足できるのか、と。そいつぁ真っ赤な嘘だろう、と。人間そんなにご立派に出来てる筈がないじゃないか。
 他人の不幸や苦痛を見てみたいという心性があるだろう? 自分なんか比較にならないほどのどん底に落ちる他人を見て、安心したり溜飲を下げたりする心があるだろう? 自分が不幸だと思っているなら、他人を羨み妬み憎む心があるならなおのことだ。であるとするなら、其処にれっきとしたニーズがあるはずだ。景気の悪い時代ならではの後ろ向きエンターテインメント。他人が地べたを這いずり回ってるのを眺めるという低劣な、けど誰の心の中にでもある趣向だ。
 社会や他人といった物語から切り取られた、個人の、暗黒の物語。決断主義セカイ系からのシフトじゃない、それらの真下に大口を開けてる奈落の物語だ。決断主義から歩を進めた者は敗北の末に全てを喪い、絶望と憎悪の中で個人の物語を終えるだろう。セカイ系から歩を進めた者は決定的な蹉跌に見舞われ、五里霧中の中なにひとつ答を見出せずに孤独と失望に満ちた終焉を迎えるだろう。
 救いなどなにひとつない、悲惨で鬱屈に満ちた物語。だが、俺は求める。何故ならば、それこそが時代の負の側面を鮮やかに活写する絵であり、誰しもが心の何処かで欲している物語であり、ポスト決断主義の陰画として光さす場所を際立たせる役割を果たし得るだろうと思うからだ。