ナナリー怖いよナナリー

 id:crow_henmi君と与太をぶっこいててギアスの話、それもいつの間にかナナリーの話に。与太の中身自体はさておくとして、ちょっとネタを飛ばしてみようかと思う。
 ナナリーが面白いのは、本当は何を考えているのか実はさっぱり解らないことだ。ずっと庇護されるキャラとして描写されてきたおかげで、彼女のパーソナリティ、願望、目的は全く視聴者に示されないまま第一部は幕を閉じた。ほぼ物語の中心に位置するキャラがこれほどまでに個性の発露を妨げられていることに、俺は制作者の意図を嗅ぎ取らずにはいられない。コードギアスほど個々の主体性と目的、そしてその相克が明確に描写されている作品に於いてこの扱いは余りにも不自然だ。
 如何にも不気味で危険な香りがする。実はナナリーは単なる傍観者じゃないのでは? 描写されなかっただけで、彼女にもルル山やウザクに匹敵するほどの強烈な願望や目的意識があるんじゃないか? 場合によってはそれを結果へと敷衍していたんじゃないか? もしかしたら既にナナリーの願望は何らかの形で叶えらえているんじゃないか? そういった疑念が消しきれない。
 俺のゴーストが囁くのだ。「ウザクがユフィを選びルル山がナナリーの騎士を続けざるを得なくなったのも、そのユフィが神の怒りに触れたが如き非業の死を遂げたのも、一度は囚われたウザクがルル山を追ったのも、全てを喪ったルル山が最後にはナナリーに固執することしかできなくなったのも、同じく全てを喪ったウザクがナナリーは俺が守ると叫びつつルル山銃口を向けたのも、悉くがナナリーの望んだことだったんじゃないか? ルル山とウザクが何もかも失くし、ただ一個の人間として一番の愛情を自分に注いで争闘するという図式を、ナナリー自身が望み演出したんじゃないのか?」と。
 多分こいつは俺の単なる妄想だ。上の例はその全てが「母性的、女性的なるものの呪縛」というアスペクトに集中してる。客観的に見ても穿ち過ぎだろう。しかし、本当にそうだろうか? 懐かしき少年少女の日の図式への回帰。真ん中にナナリー、右と左にウザクとルル山。それを望んだのは一体誰だ? その図式を導く為の唯一最善の方法として、一心不乱の大戦争を望んだのは一体誰だ? まるで女王蜂のように、物語という巣の中心で働き蜂が齎す蜜をじっと待っていたのは一体誰だ? 
 …その答は、おそらく一つしかなかろうと思うのだ。

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以上、ネタ終了。ナイトメア・オブ・ナナリーよりは薬味が効いてると思うんだが、どうかな?www