EoEラストについての個人的雑考

前回エントリのコメントにおいて、id:BigHopeClasicさまよりEoEラストシーンの見解についてご意見を賜りました。回答が長くなったので、ついでだとばかりにエントリの形に拡大。ご了承下さい。

>遍く人を元の姿に戻すこともできたのに、復活させたのはアスカだけ。
そりゃシンジに酷でしょう(笑)。
「元の姿に戻るか否か」は、各人が主体的にそう思わないとATフィールドを取り戻せないようにカヲル(だったと思う)が言ってたはずですが。
というか、「教祖様シンジ=庵野」が戻れと言ったら戻るのでは、庵野がEOEで何を否定したかったのか、よくわからなくなってしまいます。

 云うとったのはレイですね(「自らの形を自分自身でイメージできれば、誰もがヒトの形に戻れるわ」)。まあそれはともかく。ガジェット的には確かに仰せの通りなんですが、EoEのラストシーンにはテーマ的に少々思う事がありまして。俺は以下のように考えています。
 シンジはゼーレ流の「みんなでひとつになる」ソリューションを否定しました。「愛しいあのひとがいれば他に誰もいらない」ゲンドウ流のソリューションも否定しました(つか齧った)。そして、以前通りの群体としてのヒトの形を望みました。ATフィールドが互いを傷つけても、他人に傷つけられても、皆に会いたい、皆と生きたいと願いました(「でも、僕はもう一度逢いたいと思ったんだ。そのときの気持ちは、本当だと思うから」という言葉のストレートな解釈です)。
 では、世界中で自分自身をイメージしてヒトの形を取り戻せたのがシンジとアスカだけだったのか? さすがにそれはどうかと。一連のラストシーンは、シンジの心象世界のイメージ、或いはシンジが創造主に等しい力を行使したイメージ、と解釈するのが妥当じゃないでしょうか。旧エヴァが徹底して碇シンジの物語であったことからすれば、彼自身の持つ帰還後の世界のイメージが具象化されたものだと見るのが自然でしょう。もっと下種でメタ的なことを云ってしまえば、客を「自らの形を自分自身でイメージできれば、誰もがヒトの形に戻れるわ」=「現実に還れ」と罵倒しつつ、庵野は自分の投影たるシンジには専用の地獄絵図を選ばせたとも云えます。エヴァンゲリオンの世界と、全てのキャラクター幻想を破壊する為に。及びみやむー…げほごほ。しかしまあこの解釈はあんまりなので、前者の仮定を採ることにします。
 帰還前、生命のスープの中で、シンジはレイやカヲルに対して、そしてユイに対して確かに元居た世界=現実への帰還を明言したはずです。そう願ったはずです。なのに、蓋を開けてみれば隣に居るのはアスカひとり。しかも、量産型エヴァに食い荒らされたままの姿の。これを俺は、シンジが最終的にまだ他人への恐怖を払拭しきれなかったことの寓意であると理解しています。だからTV版最終話ラストシーンにはいたはずのミサトもリツコも日向も青葉もマヤもトウジもケンスケも委員長もゲンドウもペンペンもいない。また逢いたいと願ったのに、ATフィールドが邪魔をしてアスカ一人しか自分の世界に招き入れることができなかった。まぁ、人間そう簡単にパッと変われるもんじゃないですからね。カヲル君は云わんこっちゃないと苦笑してるかもしれないけど。
 これでは、死せるユイと合一するために全人類を犠牲にすることも厭わなかったゲンドウと結局は大差ありません。それが願いだったのか(ゲンドウ)、限界だったのか(シンジ)の違いこそあれ、キミとボクとの歪なセカイを作り出してしまったという無残な事実がそれを証明しています。セカイ系ボーイズ乙。
 そして、踏み出したコミュニケーションの最初の一歩が首絞め。1997年の初見からあのシーンの印象は全く変化しておりません。「どこまでも不器用で難儀なやつだなあ。ま、コミュニケーションってのは他人があって初めて成立するもんだから、やり方しくじることもありゃ拒絶を喰らうこともあらぁな。ここまで下手打つやつも珍しいと思うけど。ま、前途多難だけど先は長いから頑張れや。扉を開いて外に出た以上、おまえに未来はある。どんな未来なのかは知らんけどな!」。まあ、その、ダメとは云いませんが、せめて全員元に戻せよと。ユイママは頭を抱えてるんじゃないだろうかと。まさに父子揃って大馬鹿者。そう思ったわけです。
 なので、機会があったらユイママはリセットボタン押すんじゃねえの? という前回エントリの表現を使ったわけです。長い説明になりましたが。